■ 福岡ビンテージビルカレッジ/第3回 「食文化から生まれるビンテージ」 ― ご報告と私の感想

2月 18th, 2013

福岡ビンテージビルカレッジ
第3回 「食文化から生まれるビンテージ」 ― ご報告と私の感想

タイトル : 「伝統食の復権。今、見直される日本。私たちの帰る味はどこに?」~農山漁村に残る食のビンテージを巡る冒険~
講師 : 森千鶴子氏(森の新聞社代表、福岡教育大学非常勤講師)

着実に、よりディープに発展してきた日本のポップカルチャ(サブカルチャー)。現在、世界の最先端を走っているのではないでしょうか?しかし、日本のポップカルチャー(サブカルチャー)をリードしている若者達の”食”に関して考えてみると、はたして、日本の日常的大衆”食”文化は発展してきたといえるのでしょうか?サブカル的に発展してきたとして、発展してきた方向性はよかったのでしょうか?それを、突きつけられたような内容のお話でした。

また、「食の文化祭」「行事食」「伝統食」「地域食」「弧食」「携帯食(けいたいしょく)」「小昼(こびる)」など、”食”にまつわる様々な言葉が登場しました。私にとって初めて聞く言葉ばかりで、新鮮な内容となりました。ここに、”食のビンテージ”のヒントがありそうです。

■ 原点 どこに帰るのか?

○ 懐かしさを感じるようになってしまった学生の食事

お話はまず森さんが非常勤講師をされている大学生のみなさんの、毎日三食一週間分の食事メニュー調査結果の一部紹介から始まりました。
出来合いのもので食べつないでいる男子学生、実家にいながらバイト先のドーナツを夕食にする女子学生。昔を懐かしく思い出しつつも、30年前と変わらない学生たちの食生活に怖さも感じました。このような食事が学生諸君の標準食として確実に定着化しているのです。
ここで森さんは、”弧食”、というご指摘をされました。私は初めて聞く言葉でしたが、一人で孤独に(寂しく)食べることを”弧食”というようです。一人暮らしや実家にいたとしても一人で(寂しく)食べる状態、つまり、”弧食化”がこのような食事メニューになってしまう一つの原因として考えられるということです。「”弧食化”が招く”食”の劣化現象」といえそうです。

○ 日本食の原点

ファストフード、ファミレス、コンビニ、弁当屋、などが登場してきた70年代から40年程経ちますが、市場原理に忠実に従い発展してきたこれらの食べ物、メニューとは、いったいどこの、だれの、何の食べ物なのか、改めて考えてみると、よくわからなくなってきました。

時代の転換期には、今までのシステムがうまく機能しなくなり、大規模な修正や、時には、まったく新しいものに更新しなければならなくなります。また、うまく機能していたとしても、方向性に問題があれば目的や方向性を改め、軌道修正をする必要があります。それに伴い、自分の考え方の変更を余儀なくされたり、根本から否定されたりすることもよくあります。私もそうですが、その時に誰しも”迷い”がでてきます。元々何を目的に何をやってきたのか?迷いの中で、いつしか時間をさかのぼり、”原点”とは何だったのか?を探し始めてしまいます。

そこで森さんは、日本人の食の原点として、「ごはん、味噌汁、焼き魚、おひたし」という献立を提示してくださりました。どのようなものでもそうですが、原点とはシンプルなものです。無駄なものはなく、必要最低限のものは網羅している。風土や地域性、歴史や民族性など必然的に生まれ出てくるものです。

右肩上がりから水平飛行時代に移った中で、”食”に関しても、近代以降の日本人にとって、あるべき本当のライフスタイルとはいったいどういったものなのか、を考える時期にきているようです。森さんのご指摘のように食の原点に立ち返るときではないでしょうか?食の原点の四品にたちかえり、”食”を考え直す。これは、何よりもまして最も必要なことのように感じました。

■ 引き算の時代 ー 本当に必要なもの=価値を見つけ出す。

○ 自由の中の不自由

元々なんだったのか?引き算していくと見えてくるものがあります。森さんは、日本食の原点とは、「ごはん+味噌汁+焼き魚+おひたし」、である。買えば何でも手に入る時代、選択肢が多すぎることで、自分にとって大切なもの、必要なものが何なのかを見失い、手っ取り早いもので済ませてしまう文化ができてしまったと提示してくださりました。これは、消費時代の有り余る選択肢の海原で漂流する難破船状態、大きな目標を見失い、目の前のことにのみ反射的に行動してしまう、ある意味、”自由の中の不自由状態”といえるかもしれません。
選択肢の氾濫、多様化が進む世の中で、必要ないものをいかに上手に捨て去り、必要なものを拾い上げることができるのかが、難破せずに、目的地に向けて航行できるテクニックの一つのようです。

○ 賃貸物件におけるマイナスのデザイン

機能の付加的バージョンアップで進んできた日本製品。賃貸物件に関しても同様で、時間が経てば経つほど価値が落ちるという宿命の中で、他物件と比べ少しでも機能、性能が劣らないようにしていこうという競争に邁進してきました。それは、最新の新築物件が最大評価となる、右肩上がりが前提のモダニズムの考え方を基準にした”リフォーム時代”の考え方です。
この考え方ですと、未来永劫、機能付加的バージョンアップをしていかなければならなくなります。これが永遠に続くことは不可能ですね。
前回の感想の中でも書かせていたできましたが、右肩上がりモダニズム時代が終わり、次の時代に移り変わっています。”リフォーム”から”リノベーション”の時代へ。モダニズム時代からリ・イマジネーションの時代へと。

右肩上がりのリフォーム時代、次々に付け加えられ、バージョンアップしていく機能でしたが、リノベーション時代に入り、逆の現象、”マイナスのデザイン”も多々現れてきています。解体撤去された化粧材、がらんどうのスケルトン状態の必要最低限にまで還元された空間。モダニズムの原点の空間がこれです。
どこに寝て、どこでくつろいだらよいのか?与えられることに慣れた入居者を惑わす空間。そこには何もないのですが、じつは入居者の想像力を最大限尊重した最大限の”自由”があるのです。見た目不自由に思える”がらんどう空間”には自由があります。”不自由の中の自由”ともいえます。

機能を引き算することで、つまり、マイナスのデザインにより、入居者のみなさんの自由度を上げるという要望に応えることもリノベーション時代には成立します。

■ 食の文化祭

○ 日常文化祭

宮城県宮崎町、地方の田舎まちで行われたイベント”食の文化祭”。各家庭から一品持ちよりで料理を集め、みんなで食べてみるというイベントだそうです。これはまさに、これからの生活中心社会にふさわしい、ありぶれた日常へ敬意をはらい、そのすばらしさを再認識する現代の文化祭ではないでしょうか。
このイベントでは、料理の優劣はつけないそうです。日常を彩る各家庭料理の多様性、そして、風土や歴史から生まれ出るその地域の独自性に価値があり、それを、自分たちで定期的に再認識し称え合い、次世代へ伝えていこうというような主旨のように感じました。

○ 行事食 伝統食 地域食

全国各地、様々なお祭りがありますが、どのお祭りも”食”の視点から見ても重要であることを、今回のお話で学ぶことができました。これまで、お祭りなどの”伝統行事と食”の関係は、私は全く考えたことがありませんでした。各地方の古くから行われている伝統行事が実は食文化のイベントでもあったのです。食の文化祭で行われた、各家庭一品持ちよりは、実は、地域の伝統行事で既に長年続いてきたことだったようです。(ハレとケの違いはありますが)

お祭り等の行事にふるまわれた行事食が、その地域独特の地域食になっていき、いつしか伝統食となっていくとのご指摘が、食文化の成立過程をよく表しており、大変興味深い内容のお話でした。

■ 何もないとは何がないのか? ー 日常の見直し時代。

○ 日常と非日常

よく、地方に行ったり、田舎に行ったりすると、ここは何もないと話したり、聞いたりします。過去を振り返ってみて、いったい何を持って、”ここには何もない”と言っていたのだろうと思い返すようになりました。
旅行やレジャーといえば、希少性のある、日常にはない非日常的な施設や行為が目的で出かけることが多いのですが、その非日常的施設や行為が”有る/無し”という視点で、勝手に決めつけていたようです。考えてみれば人が住んでいるところは、どこに行ったとしても日常があるので、非日常的視点でのみ”有る/無し”を判断し、決めつけてしまうのは乱暴すぎることがだんだんわかってきました。

○ 日常の価値

希少性のある非日常的施設や行為はもちろん価値は高いのですが、旅行、レジャーブームにより、多くの人々がそれらを求めるあまり、希少性や非日常性の価値が思った以上に高騰してしまい、退屈な日常生活の価値が低いものという評価基準が社会の常識となってしまいました。

○ 歴史も日常に目を向け始めた

歴史においても、庶民の日常生活の価値が見直されているようです。やり尽くされた為政者の歴史から、庶民の生活に焦点を当てた歴史が掘り出されるようになってきました。人間味あふれる庶民の暮らしの歴史は思いがけないことも多々あり、大変おもしろいです。

○ 評価基準の転換

近年、脚光を浴びているコミュニティーデザインは、ありふれた日常は低価値であるという概念を逆転させ、日常の価値を自らとらえ直し再定義するという評価基準の転換と再定義から始まるようです。(ここには何もないのではなく、こんなにも日常を支える様々な価値あるものにあふれている・・・という感じでしょうか。)
先ほどご紹介した食の文化祭は、このような評価基準の転換により、日常を彩る家庭食に焦点をあたコミュニティーデザインといってもよさそうです。

これらの価値を考え直すことは、”原点”とは何であったのかを考えることではないでしょうか?これからどんな考え方で、どのような目的でライフスタイルを確立してゆくのか、原点を見直し(=リ・イマジネーションし)作り直してゆくときのようです。

■ 自分で作る=セルフビルド

○ 弁当を自分で作る

ある小学校で、自分で弁当を作る日をつくり実施してみたそうです。便利なシステム内にいると自分が何に支えられているのかがわかない状態で日々を過ごしてしまいます。私も学生の頃、日々のお弁当や食事は自然と出てくるのが当たり前だと思っていました。これを認識するために自分で弁当を作ってみる、つまり、セルフビルドしてみるという試みです。

○ セルフビルドはたのしい

徐々に広がりを見せるセルフビルド。それは、生活とは何かを探している行為のようにも見えます。全てを合理的に計算の遡上に載せてしまう資本主義的考え方が、体の感覚的なものと齟齬をきたし、無理な考えなのがバレた感じではないでしょうか?他人に任せてしまい消費することで片付けてしまう意味に魅力がなくなってきた(飽きた?)ようです。もともと人が持っている手を動かしてものを作る行為が復活するのは至極当然の健全なことのように思います。

○ セルフビルドx空き屋リノベーション

有り余る建物をどうしてゆくのかは人口減少時代に突入している日本では、すでに社会問題になっています。現状の用途に合わない建物を有効利用するには、セルフビルドが有効であり、理にかなっています。むかしのように、自らの生活を自らの手で作っていくことが近代のライフスタイルにも有効で、必要なことなのではないでしょうか。

■ ポップカルチャー(サブカルチャー)X行事食

これは、これからの社会で最も必要で、最も大きな課題である”食育”と”食文化の伝承”についての具体的対応方法として有効かもしれません。偉大なる家庭内食文化が”弧食化”により有効に活用されず、次世代へと伝わることもなく、消え去ってきているようです。現在の貧弱な”弧食”の皆さんの食事を改善するために、家庭内食文化を若者たちの日常にどのように忍び込ませ、伝承させていくのか、次のようなご提案がありました。

何かのイベントに集まったときに、必ずといっていいほど”食”がからみます。その時に手作りのもので楽しむ食事、つまり、”行事食”を文化にしていこうというご提案です。
食に限らず、何かを広めたり、伝承していこうとする場合、すでに存在している若者達の集まりやコミュニティーにうまく滑り込ませることができれば、自然に広がり、伝えていくことができるかもしれません。
予想以上に貧弱な若者たちの日常”食”文化。日本全体をみても一世帯二人以下が半数を占めるようになった中で、便利であるが故の退化(?)状態の食文化をどのように立て直すのか。大きな課題です。

■ “場”

森さんは打ち合わせ当初から”場”の重要性を指摘されていました。
つまり、”場”に”食”ありです。もしくは、”場”と”食”をつなげよう、それがこれからの社会に必要ではないかというご指摘です。
私なりに考えてみると、第一の場所が住居、第二の場所が職場、そして、住居と職場以外の場、第三の場所=”サードプレイス”と”食”をつなげることで新たなライフスタイルを確立できるのではないかということです。
もちろん、住居、職場での食が最も大切なのですが、二人以下の世帯が増加し、家庭があったとしても共働きも多くなり、職場も不安定化する中、孤立し弧食となってしまった場合、これらの場所以外の”場”がもう一つあり、複数人で食卓を囲うような機会を作ることができれば、生活に少しかも知れませんが、安定感や安らぎ、安心を得ることができるのではないでしょうか?。
人口減+高齢化+少子化の社会では、余った建物をサードプレイスとして”食”も含めて活用することにより、生活圏コミュニティー全体のライフスタイルを確立できるのではないかと思っています。

■ 仮設住宅での食の文化祭

ボランティアのみなさんに、やってもらうばかりでは、実は、心の負担になるという中で出てきた自然的行為が、仮設住宅で行われた”食の文化祭”だそうです。仮設住宅にお住まいの方々が、家庭料理を持ち寄って開いた文化祭。大震災とは写真や映像に残らない多くの無形のものも破壊してしまうようです。もしかすると、行事食、伝統食、地域食、それを支える多くの家庭の日常食を破壊してしまったかもしれません。

■ 食xビンテージ  食のビンテージとは何でしょうか?

ビンテージは、個人からわき出てくる感性が元になり成立しています。ですから、広く社会に共感を得るというよりも、サブカル的な一部の島社会の中で強く共感を得るということになりそうです。個人の感性に立脚したビンテージ的価値を基礎とした文化は、サブカルチャーとの親和性がよいので、着実に広がり、定着してゆく文化ではないかと考えています。

多様なる日本食、これは、日本の風土とそこに生活している日本人気質が成し得る独自の多様なる文化です。代々受け継がれてきた食文化が、いきすぎた孤立化により途絶えようとしています。便利になりすぎた分、今や、日常的日本食がビンテージ化してきたといってもよいかもしれません。希少価値となってきた(?)日常の日本食。森さんのご指摘された試みを参考に再生していく必要がありそうです。

「食の文化祭」「行事食」「伝統食」「地域食」「弧食」「携帯食(けいたいしょく)」「小昼(こびる)」など、”食”にまつわる様々な言葉。さすが日本人、こういった面からみても、もう既にビンテージ化(サブカル化)しているように思えてきました。多様な食の分類が、それぞれの価値の定義など、ビンテージ化の基礎となる評価基準の設定に役立ちます。これからも、よりディープに発展していくポップカルチャー(サブカルチャー)。日本の日常食をビンテージ(サブカル)と位置づけることにより新たな展開や広がりが可能になるのではないでしょうか?
これまで市場にまかせ、サブカル的に発展(?)してきた若者を取り巻く日本の日常的大衆”食”文化の方向性を軌道修正し、森さんが提示してくださった、日本の食の原点である四品に立ち返り、若者たちにも受け入れ可能な新たな食文化を作り上げていく時がきているようです。

■ 二つの不自由

「行きすぎた自由・多様化による不自由」と「付加されすぎた機能や超過サービスによる不自由」

豊かさを求め、自由を望んだ結果、わずらわしい前近代的なつながりを断ち切ったのはよかったのですが、自由な中で自分勝手が行きすぎたあまり、助けが必要なときに誰もいなくなってしまった現代人。個人を中心とした多様なサブカルチャーが発展したのはよかったですが、ますます自由→個人→孤独へと進んでいる結果、行動が制限されることもでてきたようです。(多様化と自由超過の中の不自由)

明日は今日よりよくなるという右肩上がりの時代は、付加機能の増加分や便利性が消費の動機となり利益となる、機能のバージョンアップ、多機能化が前提の時代。
いつしか使う人はおいていかれ、モノだけが独自の進化を進み出す。いつしか、これだけグローバル化した情報化、自由貿易世界にも関わらず、”ガラパゴス化”という現象まで引き起こしました。(これはこれでサブカル的視点ではおもしろい)
食生活においても、コンビニ、ファストフードなど外食産業の発達により便利になりました。しかし、自分で食事を作らなくなり食文化は衰退してゆくばかりです。この状態は、食の自由が奪われているといってもよいのではないでしょうか?(機能・サービス超過による不自由)
先ほど指摘したように、賃貸・分譲マンションや住宅産業の住居でも同様です。

■ 最後に

第1回目が”衣”、第2回目が”働”、今回の第3回目が”食”、次回の第4回目が”街”です。”住”空間を取り巻くこれらの生活空間を、新時代にあった新しいライフスタイルにどのようにリノベーションさせてゆくのか?第3回目を迎えた今回も、大きなヒントが得られた意義深いお話となりました。
次回も楽しみですね。

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福岡ビンテージビルカレッジ :http://www.space-r.net/bunkasai/college
第3回 食文化から生まれるビンテージ/ 2013年2月2日(土)

タイトル : 「伝統食の復権。今、見直される日本。私たちの帰る味はどこに?」~農山漁村に残る食のビンテージを巡る冒険~
講師 森千鶴子氏(森の新聞社代表、福岡教育大学非常勤講師)
【略歴】
1968年生まれ。福岡県宗像市出身。バブル時代に、東京でコピーライターをしていたが、消費社会にどっぷり浸かっている自分に限界を感 じ、親の病気を口実に96年に、福岡に帰郷。以降、九州を中心に農山漁村を歩きながら、食文化、農業等の記事を書くフリーライターとなる。2002年より 2010年までの8年間は、日田市中津江村の廃校活用住宅に移住。以来、書くことにあきたらず、食を核とした地域づくり活動や、村おこしの支援、子どもた ちへの食育活動などに関わっていく。2011年より福岡市在住。天神パークビルの屋上稲作「たのしイネ」アドバイザー。都市と農村、子どもたちや若者と農 村の、あたたかな関係づくりを模索中。
【活動紹介】
農業専門誌などへの執筆のほか、地域を見つめ直し、未来の暮らしに活かす「地元学」の指導やワークショップ、特産品開発、農産加工等の助言も行っている。
2000 年より、各地の食資源の見つめ直しによる、地域づくり活動「食の文化祭」「家庭料理大集合」の取り組みをサポート「築上つけもの博覧会(福岡県築上 町)」、「古賀のみかんの文化祭(福岡県古賀市)」、「高千穂のこびる発表会(宮崎県高千穂町)」など。関わった地域は70ヶ所以上になる。
農林水産省選定「地産地消の仕事人」、六次産業化ボランタリープランナー

主催:NPO法人 福岡ビルストック研究会/(株)スペースRデザイン/吉原住宅(有)
コーディネーター
吉原勝己氏(吉原住宅(有)代表取締役)/信濃康博(信濃設計研究所所長)
場所:山王マンション/1F

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第1回 私のVINTAGE LIFE / 2012年12月16日(日)終了
第2回 オフィス文化から生まれるビンテージ / 2013年1月19日(土)終了
第3回 食文化から生まれるビンテージ / 2013年2月2日(土)終了
次回
第4回 京都のビンテージが生みだす都市再生 / 2013年3月9日(土)

こちらもご覧ください
>>福岡ビンテージビルカレッジ / 第1回 「私のVINTAGE LIFE」 ― ご報告と私の感想
>>福岡ビンテージビルカレッジ / 第2回 「オフィス文化から生まれるビンテージ」 ― ご報告と私の感想

 

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リノベーションとは、生活環境のサードプレイス化である。(?)

6月 21st, 2012

■ 近代建築が目指したライフスタイル

近代建築的(モダニズム的)集合住宅が本格的に建ち始めたのは関東大震災の復興を目的につくられた”同潤会アパート”でした。これは、アジアの盟主たる日本にふさわしい耐震・不燃化した都市型集合住宅を建設し、生活を西洋化させ、欧米に遅れをとった日本の近代化を成し遂げることが目的でした。
しかし、現実は、外観はRCの近代建築でしたが、室内は畳敷き・フスマ・障子・押入れ・欄間・地袋などの和風な内装でした。戦後、DKが発明され、家事空間の改善と食寝分離を基本理念に、日本型の近代都市型居住空間が発展していきます。賃貸集合住宅では近代的外観に畳敷きの内装という時期が長く続いていましたので、畳の上に絨毯をひいたり、ロール状のフローリングを敷いたりして、生活の西洋化を入居者が独自に行なっていました。引越しの時、テーブルの足の跡が畳にクッキリと4ヶ所残っているのが印象的で、いまだに覚えています。
本格的に賃貸集合住宅が畳からフローリングに切り替わるのは、80年代以降からでしょうか(?)経済発展をした日本に自信を持った若者を中心に、前近代的な畳敷和風デザインの部屋が嫌われ、押入れ・フスマ/障子もなくなり、ビニールクロス・ポリ合板のドア・クッションフロアー+ユニットバスというシンプルな(実は安価で安普請な)内装に変わっていきます。学生時代一番人気は、なんといっても”新築+フローリング”という状況だったのを思い出します。現在は基本的にこの流れの延長上にいるのですが、今世紀初頭、別の流れが出てきました。それが”リノベーション現象”です。

■ リノベーション現象とは、ポップカルチャー化現象である。

「自分の着たい服を着るように、”自分の住みたいデザインに住む” 時代」

リノベーション現象とは、借りものの=洋風化・欧米化を目指した近代化=モダニズムを卒業し、現在の日本人にとって本当に住みたい住環境デザインを取り戻すための大衆化運動のような気がします。
現在の日本は世界の中で最もポップカルチャーが進化し、他国の追随を許さずガラパゴス化しています。この、ポップカルチャーにあらゆる分野がのみ込まれている中、同潤会アパートから1世紀弱過ぎて、やっと、遅まきながら賃貸集合住宅も”リノベーション”というポップカルチャー化現象にのみ込まれ始めたのです。
都市の住居(=箱モノ)不足は床面積だけを見れば供給過剰になり目的は達成、その上、人口減少、少子化、低成長時代という状況で、貸し手優位から借り手優位に転換するという状況です。一方、衣服→アクセサリー→小物・雑貨→イス→家具→と拡大してきた感性領域がインテリアまで到達、インテリも個人を基準とした感性領域となりました。こういった状況もあり、”リノベーション”は瞬く間に広がっていきました。表面だけを新しくする、見た目だけが問題な今までの”りフォーム”とは根本的に違います。
広がっていくリノベーション空間を見ると、モダニズムが課題としてきた諸問題がまるで無かったかのような自由なデザインが蔓延しています。自分が着たい服を着るように、自分の住みたいデザインの部屋をつくる時代がきたのです。(インテリアのファッション化)

 
 
■ リノベーションとは、生活環境のサードプレイス化である(?)

グローバル化の中で本物の資本主義がきているようで、日本全体が経済低成長の中で苦しんでいるように見えます。(私はバブル時代を知っているのでそう見えるだけのような気もしますが・・・)いまだモダニズム理論で形作られている社会と、激しい変化をしている現状=フラット化してゆくポップカルチャー社会に、激しいギャップが生じ、仕事環境、家庭環境ともに不安定化しています。安定した自分を長期的に維持するために、生活環境の”サードプレイス化”が進んでいるのではないでしょうか?
住空間のリノベーション、仕事空間のリノベーションのデザインをよく見てみると、モダニズムデザインが依然主流としてありますが、他方、おもしろいのはポップカルチャーデザイン(サブカルも含め)のインテリアではないでしょうか?これは、モダンデザインを根底に、和風とか、洋風とか、アジア風などの”風”的デザインテイストを取りつつも、独自の感性でデザインしていることがよくわかります。それは、借り物の感性ではなく、自分の中から湧き出てくる感性でできています。ちょっと変に見えるところも味となり独特な空間となっています。
これらの現象を見ると、生活環境自体をポップカルチャー(サブカルチャー)でまとい、空間自体に戯れられうような空間、つまり、”戯れ空間”をつくるのが目的のように見えます。住居も職場も(その他の空間も)自分の居心地の良い空間=”戯れ空間”で埋めてしまいたいのが、現在の若者たちの希望ではないでしょうか?
近代=モダニズムは、機能を分類し、それぞれの役割を与える論理でした。住空間、仕事場、遊び場、商空間、リラックス空間など、機能と空間がはっきり定義・分類され、都市の中に配置されてきました。しかし、これも進化したポップカルチャーが浸蝕、各機能・空間は融合してきています。自宅で仕事したり、オフィスをリビング的にしたり、居住空間、仕事空間、商業空間いずれにかかわらずカフェスタイルをとりいれたり・・・よく見かけるようになりました。
社会の不安定化の中の必要性としてのサードプレイス。自分の戯れ空間としてのサードプレイス。そして、発展系として、新社会保障・コミュニティなどとしてのサードプレイス等、有り余る「建物=箱モノ+リノベーション」により、社会はサードプレイス化していくのではないでしょうか?


 
 
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”家庭と仕事”の不安定化を補完する、個人的長期安定化空間”サードプレイス”必要時代(?)

6月 14th, 2012

■ 現在、時代の大転換期、新しい時代のライフスタイルを模索、研究、実施している産みの苦しみが、みんなの目的・目標・希望にすることができない時代のようです。

1,”初期条件”の変化
・ソフトインフラ=社会保障制度の腐食化
・「ハード=箱モノ」から「ソフト=人・社会」へ転換移行期
・人口構成の転換
・資本主義、消費社会の行き詰まり・不透明感
・エネルギー政策の転換
・経済成長不透明
・標準モデルの不成立

2, ”意味”の変化

”仕事”
”働く意味”への不満 → 労働の対価がお金で満たされなくなり、”意味”の重要度が増加してしまった。
いざ、意味を考え始めると、成熟社会の多様化、流動的、過情報のなかで、思った以上に目的化・目標化が困難、すっきりとした意味を定義するのは困難をきわめる。

”家庭”
標準世帯モデルは成り立たず、多様な家族形態が混在することが標準。
旧初期条件で設計された旧OSである脆弱化した社会保障制度が、”家庭”を不安定化、脆弱化。

■  個人単位で長期的安定化した目的化・目標化・希望化した空間(=例えばサードプレイス)を、実態空間であれネット空間であれ持つことができれば、家庭、仕事で意図しない突発的な変化にも社会保障補完的な役割を担えるのでは?

 

 
 
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日本は近い将来”サードプレイス”を中心とした社会になるのか?

6月 6th, 2012

現在、社会の転換期をむかえているようです。ソフトインフラ=旧OSが機能しなくなり、新OSへと書き換えをしなくてはいけないのですが、以前のような富の分配ではなく、負担の分配をしなくてはいけないのでなかなか進みません。
若者達が思い描いている豊かであろうライフスタイルを想像し、それを元に、どのような社会になっていくのかをラフスケッチしてみました。

■ ワーク・ライフ・バランス (会社中心社会は終わり生活中心社会になってきているようです。)
今も昔も若者達が憧れるのは、自分の居心地のよい空間で、時間を忘れて自分が好きなことと戯れて生活することです。物質的、金銭的豊かさの実現後、時代の変換期をむかえている今の日本で、豊かさを示す基準の一つは、「この”戯れ空間”を、どれだけの”時間”手に入れることができているのか」ではないでしょうか?
文化の大衆化は進み、今や日本のポップカルチャー(サブカルチャーも含め)は世界の最先端を突っ走り、他国の追随をゆるさず、ついにガラパゴス化してしまいました。おたく的サブカルチャーもしだいに認知され、誰もがなにかしらの”おたく”(”おたく”という言葉がどうかは別にして)になることが生活の充実度につながっていくような雰囲気になっています。(例・韓流、山ガール・・・など)
若者達と話していると、仕事でも、趣味でも、おたくでも、他人の目を気にせず、損得なしで没頭できることを持っている人を、想像以上にうらやましく感じている人が多いように感じます。生活中心社会をむかえている中で、生活と仕事ともう一つの空間、自分と戯れることのできる空間=”サードプレイス”の質を重要視する社会となっていくのではないでしょうか?

■ 3つの自分を持つ時代。自分を保持できる場所。自分が自分で居れる場所。
自分とはなにか?不安定で流動的、価値のヒエラルキーがないフラット化した自由な社会で自分を保持するのは大変です。家庭と仕事はどちらも絶対安定的なものとはいえなくなってしまいました。自分が自分で居れる場所が求められているように感じます。

Ⅰ:生活:”自分A”
人口は減少、子供は減り、高齢者が増加、一世帯の人数は半分が2人以下となりました。核家族4人の標準モデルはあまり機能しなくなり、これから先は多様な家族形態が混在することが標準になるようです。今や家庭も安定したものとはいえなくなってきたようです。

Ⅱ:仕事:”自分B”
本物の資本主義がやってきたようで、会社の将来は予測できず、仕事は不安定、職場は流動的、定期昇給的収入アップは期待できない状態。仕事環境は不安定極まりない状態です。

Ⅲ:サードプレイス:”自分C”
このような中で、長期間にわたり普遍的安定性のある、過去と現在と未来を通して自分を見つめることのできる空間、つまり、”サードプレイス”が必要な社会になってきたように感じます。

■ 新コミュニティ。新社会保障。新経済主体。
サードプレイスは不安定化している家庭、職場、企業と家庭共同体に代わる、ソフトインフラとして機能する場となりうる可能性もあるのではないでしょうか?

■ ”サードプレイス”の機能イメージまとめ
リスクヘッジ → 家庭や仕事が意図せず激変したとしても居る場所がある
長期・安定的自分保持 → 長期的・安定的に自分が自分で居られる場所=戯れ空間
経済主体 → ”収益確保”の場所ともなりうる可能性
地域コミュニティの中心 → 時には”地域貢献”する場
相互補助的役割 → 他人同士でも役割を分担=”シェア”し相互補助しながら生活を守る
距離 → 距離無関係のネット空間、距離が関係する実態空間、それぞれの役割がある

 
 
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